同自分が一番輝ける“色”をみつけてほしい
2011年にドイツへと渡り、以来5年間、ブンデスリーガの最前線でプレーする細貝萌。今年29歳。サッカー選手としての最盛期を迎えた上州生まれのフットボーラ—に、現在の心境、そして故郷への思いを聞いた。
僕は群馬で生まれて群馬の人たちに育ててもらった
伊勢崎にフットサル場をオープン
Q浦和レッズからドイツへ渡って何年目?
「5年目になります。最初の年はシーズン途中からだったのでシーズンで言えば、6シーズン目。振り返ってみると、あっという間に時間が過ぎていった感じです。ドイツへ渡って良かったと思いますし、自分にとって非常に価値のある5年間だったと思っています」
Qドイツへ行くのに迷いはなかった?
「オファーをもらった時点ですぐに行きたいと思いましたし、迷いはまったくありませんでした。タイミングを逃したら、次にいつチャンスが来るか分からないので、このチャンスを逃すことはできないと考えました。人生においてそういう瞬間は、だれにでも必ずあるのではないでしょうか。自分の決断に間違いはなかったと言えます」
Qドイツでプレーして5年。今夏、伊勢崎市にフットサル場をオープンしたがその経緯は?
「子どもから大人まで気軽にサッカーを楽しめる場所が地元にあればと思っていた。ドイツでは芝生の公園で多くの子どもたちがサッカーをしています。日本でもそういう環境を作りたかった。男女問わずにプレーできるのがフットサルだと思ったので、何年か前から構想を温めていました。ベイシアさん(伊勢崎宮子町)の屋上を貸してもらえることになり、人工芝2面のフットサル場を作らせてもらいました。サッカーを好きになってくれる人が増えたら、うれしいです」
Q施設をどんな場所にしたい?
「とにかく楽しんでほしいです。自分は群馬で育って、群馬の人たちにサッカー選手として育ててもらったので、地域に恩返しをしたかったという気持ちもあります。将来的には、ここでプレーした子どもたちがプロになってくれたら、それが一番うれしいです。サッカーのおもしろさを知ってほしいですね」
いまでもサッカーが大好き
Q自身がサッカーを始めたのはいつ?
「サッカーを始めたのは幼稚園のころです。3歳上の双子の兄がサッカーをしていたので、一緒にサッカーボールで遊んでいました。ふたりの兄に負けたくなくて一生懸命練習したのを覚えています。兄の背中を追いかけていった結果が、自分の成長につながっていきました。お手本となる目標が身近にあったことは、大きかったと思います」
Q小学校のときはどんな練習をしていた?
「家の前にマーカー(印)を置いて、ドリブルをやり続けていました。あとは家の壁にボールを蹴って遊んでいました。練習をしているという感覚ではなく、全部、遊びの延長です。親やコーチに『やれ!』って言われたのではなく、好きだからやっていただけです。それだけサッカーが好きでしたし、いまでもその気持ちは変わっていません」
Q少年時代のあこがれの選手は?
「小学生時代は、カズさん(三浦知良)やラモスさんなどが全盛期だったので、よく観ていました。中学生になってからは、ジダン(元フランス代表)やピルロ(イタリア代表)など世界で活躍する選手を観て、プレースタイルは違いますが、自分も世界でプレーしたいと思うようになりました」
Q小学校時代の思い出は?
「関東選抜に選ばれたことです。それまでは群馬県のレベルしか知らなかったのですが、関東の選手たちと一緒に練習や試合をすることで、視野が変わってきました。中学のときにはナショナルトレセン(ナショナルトレーニングセンター制度)にも呼んでもらって、Jリーグのジュニアユースでプレーしている選手たちのレベルを感じることができました。中学時代に、トップレベルを経験したことが自分にとっての大きな刺激にもなりましたし、自信にもつながっていきました」
あこがれの世界が現実に
Qプロを意識したのはいつ?
「中学から高校に上がるころです。中学3年生のときにU-15日本代表に呼んでもらって、同世代の選手といろんな話をする中で、少しずつですがプロ選手になりたいという意識が芽生えてきて、高校生になったときにそれが目標に変わりました」
Q前橋育英に入学した理由は?
「中学3年生のときに、いくつかのJリーグユースから声をかけてもらったのですが、自分としては兄がプレーした地元の前橋育英でプレーしたかった。Jリーグユースよりも、高校サッカーで活躍することの方が魅力があったし、自分の可能性を広げることにつながると考えていました。高校3年生のときは、目標だった全国選手権に出場することはできませんでしたが、結果的に浦和レッズに加入することができました」
Q前橋育英での3年間を振り返ると?
「サッカーに没頭した、かけがえのない3年間でした。あの時間があったから今の自分があると言えます。山田耕介先生(監督)の指導によって、自分がより自分らしくなっていった時期だったと思います」
Qどんな指導を受けた?
「入学したときはトップ下のポジションをやっていて、それ以外のポジションは考えたこともなかったですし、自分は攻撃的な選手だと思っていたので、守備に関してはまったくやりませんでした。おもしろくなかったので(笑)。でもある日、山田監督から呼ばれて「『お前は攻撃の選手じゃない。守備の選手だ』と言われました」
Qそのときの心境は?
「なんで?って思いましたし、攻撃の部分を否定されているようで悔しかったです。でも言われ続ける中で自分の考えが少しずつですが変わっていきました。自分の思っている“色”が必ずしも正解ではなく、それ以上に輝ける“色”があるということです。いま振り返ると、山田先生は僕の特長を一番理解してくれて最善のアドバイスをくれたのだと思います。それによって自分自身のプレースタイルを見直すことができました」
Q守備的プレーヤーを受け入れたのは?
「レッズに入ってからです。攻撃の部分で限界がみえたというか、厳しいなと感じるようになり、守備的プレーヤーへシフトしていきました。それがドイツへ移籍するチャンスへとつながっていきました。攻撃の選手のままだったら、多分、別のサッカー人生になっていたと思います」
サッカーが人生のすべて
Qプロを目指す子どもへ伝えたいことは?
「多くのポジションを経験して、コーチのアドバイスをしっかりと聞くことが大切です。でも最後に決めるのは自分。それを忘れないでほしい。そして、サッカーを好きになることが一番重要だと思います。僕はいまでもサッカーが大好きですし、サッカーが好きな気持ちはだれにも負けていないと思っています。同期である佑都(長友)や圭佑(本田)と話す機会がありますが、彼らと話しているとサッカーが好きということが思いっきり伝わってきます。だから僕ももっともっとサッカーを好きになろうと思っています」
Qサッカーを好きになることが一番?
「それが上達への一番の近道だと思います。プロになれる人は限られてしまいますが、サッカーを生涯スポーツとして楽しんでほしい。またサッカーに限らず、夢中になって努力できるものを見つけてほしいです」
Qサッカーとは?
「自分にとってサッカーが人生のすべて。細貝萌というプレーヤーを作り上げてくれたのがサッカーです。それは今後サッカー人生を終えてからも、同じだと思います。高校を卒業して浦和に入団した18歳のときと、いまの29歳では、サッカーに対する考えは違いますし、見えている景色も変わってきています。これからもサッカーから多くのことを学んでいきたいと思っています」
Q群馬への思いは?
「ドイツでの生活が長くなる中で群馬にはなかなか戻れないのですが、生まれ育った群馬に対して何かできたらという思いが強くなりました。帰ってきたらザスパの試合も観に行きますし、群馬に対して僕ができることがあれば協力したいと思っています」