時代の空気に流されてしまうと、あの時と同じようなことが
起こってしまう。重要なのは歴史の真実を記録し残すことです
「知られざる地元の歴史を次世代に伝えたい」 そんな願いを込め製作したドキュメンタリー映画「陸軍前橋飛行場 私たちの村も戦場だった」が今春、第37回日本映画平和賞(日本映画復興会議主催)に輝いた。同作は太平洋戦争末期、旧群馬町(高崎市)に急造された「陸軍前橋(堤ケ岡)飛行場」を巡る証言や資料を記録したもので、緻密な取材とともに、歴史の真実を記録する公文書管理の在り方を問うという今日的なテーマが高く評価された。旧群馬町の元教育長、鈴木越夫さんの著書「陸軍前橋(堤ケ岡)飛行場と戦時下に生きた青少年の体験記」をもとに製作された同作は2018年7月の公開以来、延べ1万人以上を動員するなど県内を中心に大きな注目を集めている。終戦から75年。飯塚監督に平和賞の受賞作やドキュメンタリー映画への思いなどを聞いた。
【体験者の癒えぬ思い伝えたい】
― 平和賞を受賞した時のお気持ちは
戦後70年以上経っても癒えぬ、戦争体験者たちの思いを伝えたいという一心で作りました。何かの賞をいただけるとは、夢にも思っていませんでしたね。ただ、完成後の上映会は、どこもお客様が入りきれず、お叱りを受けた程。反響は想像以上に大きく、観る人の心を触発する何かがあるという確信はありました。受賞を機に、さらに多くの人に観て貰えたら嬉しいです。
― 製作の経緯を教えて下さい
知り合いから薦められて鈴木さんの本を読み、「これは映画になる」と直感しました。特攻隊の訓練基地にもなった飛行場が使われたのは、終戦までの僅か1年足らず。地元でもその存在を知る人は多くありません。鈴木さんに映画化を提案したところ、鈴木さんや地域の人たちが製作協力委員会を立ち上げてくれました。資金集めからスタートし、完成まで2年近くかかりましたね。
― 製作する上で、国内外で多くの取材を重ねています
原作には飛行場に関わった70人程の証言が記録されていますが、そのうちの半数以上にインタビューを行いました。特攻隊員と交流があった女学生や飛行場の建設に動員された男性、飛行場への爆撃に巻き込まれた地元住民など70代から90代の方たちが登場します。飛行場に関する公的資料の多くは敗戦直後、軍によって廃棄され残っていません。そのことを踏まえ、公文書管理の法制化に取り組んだ福田康夫元首相に話を聞き、米国国立公文書館にも行きました。映画では飛行場から飛び立つ特攻隊員や米軍の空爆を受ける飛行場など、当時の国内外の写真や映像資料などをちりばめながら40人近くの体験を伝えています。飛行場を巡る戦争の記憶を語り継ぎ、2度と悲劇を繰り返してはならないという願いを込めて完成させました。
【記録し残すことの大切さ感じて】
― 製作する上で意識したことは
観る人の興味を惹きつけるには分かりやすさが重要ですから、編集に最も力を入れました。戦争の写真や映像と、体験者の核心的な言葉をテンポ良く繋いでいく。すると、一言二言でもそれぞれの証言が生きてきて、当時の出来事が何だったのかが鮮明に浮かび上がってくるのです。音楽にもこだわりました。飛行場で訓練していた特攻隊員の詩と人気作曲家・大中寅二による軍歌に加え、寅二の息子で特攻に志願した作曲家・大中恩(めぐみ)が作った「母 MOTHER」という美しい曲を挿入したのです。さらに、特攻隊と交流した女学生の手記を現在の女子高生が朗読する場面を織り込むなど、作品をより豊かにするための工夫を随所に凝らしました。
― 今作を通して伝えたいことは
戦争をテーマにした映画製作は初めてでしたが、僕にとって原作に登場する「村日記」の存在は大きな発見であり驚きでした。それは飛行場に隣接した村に暮らしていた住谷修さんが書き残したものです。住谷さんは普段から日記を克明につけていましたが、特に戦争の時代の村に関する部分は重要だと気付いて、それを「村日記」と名付けて息子さんに清書させました。清書が終わった時、「子孫に次ぐ」と添え書きをさせて、「村人に見せてはならない」という言葉を残しました。そのように指示するくらい、住谷さんの記録は、軍部の批判も含め当時の状況が克明に書かれていました。もし特高に見つかったら、捕まってしまうような内容だったのです。これは、本当に大変なことであり凄いこと。戦中戦後、公文書の改ざんや隠ぺい、破棄などはごまんとあって、前橋飛行場の公的資料もほとんど焼却されてしまいました。でも、村人が記録としてきちんと残したことで我々は当時の様子を知ることができます。時代の空気に流されてしまうと、あの時と同じようなことが起こってしまう。重要なのは歴史の真実を記録し残すことです。
【「生き様」を正直に表現する】
― 映画作りで心掛けていることは
学生時代、小川プロに入ってすぐ小川紳介監督から「どういう映画を作るかは問題ではない。いかに生きるかが大事、映画は生きた結果だ」と教えられました。僕は映画の専門知識はなかったけれど、「生き様」を正直に表現することなら出来ると確信し、この道に入りました。素人でも志さえあれば作れるというのは新鮮な驚きでしたね。監督との出会いによって、すっかりドキュメンタリー映画にハマり、気付いたら50年以上経っていました(笑)。
― ドキュメンタリー映画の魅力を教えて下さい
何といっても同時代性でしょう。今作にしても、戦争を体験した人が70年以上前のことを、今起こっているかのように「こうだったんだよ」と語る訳です。戦争は過去の出来事ではなくて、未だに解決されない現代の問題なのですね。映画に登場して下さった方々の様々な生き様に触れあうことができるのが、ドキュメンタリー映画の魅力でしょう。
― 映画作りに携わって50年。その原動力は何でしょう
実は毎回、「これが撮りたい!」というのはなくて都度都度、出会う人との繋がりによって次作へ導かれていくという感じです。色んな人と知り合い、何かがパッと引き合うと一つの方向にどんどん進んでいく。大学で学生運動と小川監督に出会い、「自らの生き方を問う」ために映画製作を続けていたら、いつのまにか今の生活の骨組みになっていたという訳です。家族には、苦労かけっぱなしですね(苦笑)。
― 群馬の皆さんにメッセージを
今年も県内を中心に「前橋飛行場」の上映会が予定されていたのですが、コロナの影響で全て中止延期になってしまいました。再開はいつになるか分かりませんが、伊勢崎市や吉岡町、藤岡市、榛東村、館林市などで検討して下さっています。一人でも多くの県民に観てもらえるよう、全市町村に上映を呼び掛けていきたいですね。
(文・写真 中島美江子)
■プロフィール【いいづか・としお】
1947年前橋生まれ。前橋高校から東北大法学部に入学。在学中から小川紳介監督主宰の小川プロダクションに所属し、ドキュメンタリー映画製作に従事。助監督などを務める。小川プロから独立後、初めて手掛けた「小さな羽音-チヨウセンアカシジミ蝶の舞う里」(1992年)で文化庁優秀映画作品賞を受賞。94年から99年にかけて三内丸山遺跡をテーマにした縄文映画三部作を発表。数々のドキュメンタリー映画を製作し高い評価を得ている。前橋在住