安中・赤穂四十七義士の石像作った「元助」の供養祭 あす

秋間史跡保存会 千葉・南房総市と交流続けて60年

25日の供養祭を前に石像周辺の整備を行った秋間史跡保存会や地域の人たち。岩壁に沿って四十七義士石像がずらりと並ぶ=11日

江戸中期、赤穂(あこう)義士の一人・片岡源五右衛門(げんごえもん)高房に仕え、故郷の安中市秋間地区の山中に四十七士の石像を建立した「元助」(もとすけ)という僧侶をしのぶ「忠僕元助供養祭」が、同地区内3カ所で開かれる。当日は秋間史跡保存会や地元自治会のほか、元助終焉の地である千葉県南房総市和田町の「向西坊(こうさいぼう)元助保存会」の代表者が参列する予定だ。

両保存会の交流は1963(昭和38)年から。1年ごとに互いに招き合ったり、樹木の苗木を贈り合ったりしてきた。秋間では毎年「3月25日」が供養祭。関係者らは今年の開催を前に、会場の一つである市指定史跡「元助遺跡義士石像」周辺や参道の整備を行った。この日、登山の途中に立ち寄ったという富岡の渡辺和代さん、小林みどりさん、梅原れい子さんは、「こんなひっそりとした場所に沢山の石像が並んでいることに感動。来てよかった」と話した。

秋間史跡保存会は元助に関する歌や踊りを創作したり、地元の小学生に石碑の歴史や元助の伝説を現地で解説するなど、保存と普及に尽力。中島秀夫会長(78)は、「交流を続けて、かれこれ60年。これからも元助の偉業を広く後世に伝えていきたいですね」と話す。

供養祭は石仏前のほか、元助の出生地や、石像建立のために元助が仮住まいをしたといわれる「久保観音堂」でも営まれる。

【元助について】1680年、現・安中市下秋間の農家の長男として出生。少年時代に家出し、伊勢参りに向かう途中で路頭に迷っていたところを浅野内匠頭の家臣・片岡源五右衛門に助けられて以来、仕える。四十七士が吉良邸討ち入り後に切腹すると、その悲しみから帰郷し慰霊のための石像群を20年かけ建立した。晩年は名を「向西坊」と改め、現・千葉県南房総市和田町で過ごし、53歳で亡くなった。明治期には元助の主君への忠誠心が小学修身の教科書に取り上げられた。

■赤穂義士四十七士石像(安中市東上秋間岩戸3197)=県道48号を北陸新幹線・安中榛名駅から東へ約1㌔の付近に道しるべあり。見学自由。駐車場数台分(石像までは徒歩10分)。秋間公民館( 027-382-4969 =平日)。

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