野球は投げることが「命」

高校野球指導者・桐生高校監督
松本 稔 さん

パフォーマンスを上げる
オーダーメイドの処方箋編み出す

45年前、第50回選抜大会で県立前橋高のエースとして「史上初の完全試合」を成し遂げた松本稔さん(63)。教員になり指導者となっても、中央高や前橋高を甲子園に導き、公立高校で監督として38年間力を尽くしてきた。今夏、日本高野連と朝日新聞社が高校野球の育成と発展に寄与した指導者を表彰する「育成功労賞」を受賞した松本監督に高校野球の指導や課題について聞いた。   (谷 桂)

「育成功労賞」を受賞し、スピーチをする松本監督(上毛新聞敷島球場)

野球は確率の高さを追求するスポーツ
―育成功労賞おめでとうございます
他にも一生懸命取り組んでいる方々がいる中で、賞をいただきありがとうございました。

―夏の大会では、桐生高をどのように指導しましたか?
多くの強豪校がいる中で、上位に食い込みたいと、「確率の高い動きやプレーを追求して、それを積み重ねていこう」と言っていました。

―どのようにメンバーを選ぶのですか?
桐生高に限らず、これまで監督をしてきたチームは、ベンチ入りや背番号について、部員間の投票で決めています。仲間がどう評価するかということです。もちろん、先発メンバーや選手交替は私が決めます。

―ほかにはどのような指導をしていますか?
チームプレーよりも「個人のパフォーマンス」をどう引き上げられるかを大切にしています。特に「ボールを投げる」ことにはこだわってきました。例えば、コントロールが悪いピッチャーが、どうやったらストライクを投げられるのか、という課題があったとします。「ボールを持って、テイクバック(腕を後ろに振りかぶること)を大きくするとコントロールが悪くなるから、小さくして前を大きく振ったほうがいい」とか「個々人にとってどういうスタイルが一番いいのか」を探り出そうと実験しています。

すぐに正しい処方箋が書ければ良いですが、なかなかそうはいかない。ボールを投げるだけでも、いくつも方法論はあります。持ち合わせている引き出しから、二つ、三つ、四つと対応策を引っ張り出してきて、それを全部試して、「君にはこれが一番いいね」と見つけ出します。その後、良い動きが定着するまでは「また、元に戻ってきたよ」と声をかけて、しつこく見ていく。誰でも自分の思考回路や行動様式を変えるのは大変なことです。この実践を繰り返して、記録することを「実験」と捉えています。

―投げる指導は大切ですか?
打つことはできても、ボールが投げられないと先発メンバーでは出られません。特に、ピッチャーの素晴らしい投球は、チームの勝利に直結します。

―投手だったことが、指導に繋がっているのですか?
現役時代は、ずいぶん投げてきたので、その経験を活かしたい。それが、私の一番の役割と思っています。「投げること」が上手くいかない選手や部員を見ると、落ち着かないんです。「投げること」ができると、もっと野球が楽しくなるだろうな、と思います。

―自身は投げることをどのように身に付けたのですか?
人間の生活様式の中で、「上から物を投げる」ことは基本的にありませんから、投げることを学習しなければ難しいかもしれません。

自分の子どもの頃は、投げの「ムチ運動」が遊びの中にありました。メンコやコマ回し、川で石を投げたり、釣り竿を振り出したり。小1の時に、グローブを買ってもらい、ブロック塀にゴムボールを投げ、家の中でも柱や天井に向かって投げていました。伊勢崎の田舎だったので、環境に恵まれ、誰にも教わらずに、自然発生的に「投げること」が身に付いたのです。でも、今の子どもたちは、チームに入ったところから野球が始まります。知らぬ間に身に付かないのは、少し残念です。

―公立の進学校を甲子園に導けたのはどうして?
1986年夏、中央高校で監督をしたときに甲子園に行けました。あの時は、投手力があった。2002年の選抜、前橋高の場合は、戦術が上手くハマった感じでした。

一般に少年野球からきっちりと指導されている選手が多いチームは、常識的なことを良く知っていますが、それに囚われてしまうこともある。相手チームも考えてくるから、その裏をかかないといけないのが野球。母校前橋高も中央高も、自分たちで考えて力を発揮したから勝利につながったのでしょう。

―指導者を続けてきたのはなぜ?

基本的には楽しかったし、充実感があったからでしょう。奥深き高校野球。「なぜ」の追求の繰り返しが面白かったのです。

高校野球の課題
―高校野球の人口が減っていますね?
時代で仕方ないですが、高校野球のレベルは下がっていないと思います。私立強豪も前橋商も、強くて良いチームです。大リーグでは、大谷翔平選手を輩出している時代です。

でも、野球人口減少で、公立校野球部の状況は厳しくなっていると思います。桐生高でも部員が少なくて、昨年初めて中学生を迎えて「体験入部会」を実施しました。

昨年異動して来て変えたことは「坊主頭でなくてもいい」ということです。強さと髪型は違いますし、共学になったのに、「坊主頭」がルールになっていたら、中学生から敬遠され、部員数が減少すると困るので、やめました。前任の中央中等も前橋高も坊主頭でなくスポーツ刈りでした。

―高校野球の改善点はありますか?
監督になりたての時代は、水を飲んではいけない、肩を冷やしてはいけないからプールもダメという時代でした。精神論や根性論ではない高校野球を指導したくて「変えたい」と週1回休みを入れ、練習の途中には、おやつタイムを設けました。

現在の高校野球は、休養日や甲子園のクーリングタイム、科学的なトレーニングや栄養学などを実践していますので、随分改善されたなと思います。

―これからの指導について
これからも、投げることにこだわった指導を幹に据えます。野球が好きで入部してくる子どもたちが、嫌いにならないように、さらに大好きに、笑顔にさせてあげたい。そのため、ミクロ的な視野で、オーダーメイドの処方箋を書けるようにしていきたいと思います。

今後、フリーランスのピッチングコーチになれたらいいですね。投げることができると、人生が開けるかもしれません。

桐生高校の野球部員と一緒にほほ笑む松本監督
上毛新聞敷島球場にある展示コーナー「本県ゆかりの野球選手の軌跡」では、松本投手の完全試合を報じた当時の記事が飾られていた

まつもと・みのる

伊勢崎市出身。群馬県立前橋高の投手として1978年第50回選抜高校野球大会に出場。比叡山高校戦で史上初の完全試合を達成。筑波大学、同大学大学院を経て、85年に群馬県の高校教諭となり、初任校の中央高校では87年第69回選手権群馬大会で初優勝し、甲子園に出場。92年に県立前橋高に異動し、2002年の第74回選抜高校野球大会でも甲子園に導いた。08年には中央中等に赴任。昨年度から桐生高校に異動し、現在まで監督を務める。23年育成功労賞受賞。04年第21回AAA世界野球選手権大会では高校日本代表チームのコーチを務め、ダルビッシュ有や涌井秀章を擁して準優勝に貢献した。

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