初飛行20周年、尽きない夢
夢に向かって一歩踏み出せば、新しい世界が待っています
【全てが夢のよう】
「天女になって飛んでいるみたい」 94年7月、コロンビア号から地元館林の中学生と交信した際に発した一言と、シャトル内でプカプカ浮かぶ姿は日本中を歓喜の渦に巻き込んだ。アジア人初の女性宇宙飛行士として初飛行を行ってから今年で20年。今も宇宙飛行士として活動する。「月日が経つのはあっという間。宇宙から見た地球の美しさ、この星を故郷とする誇らしい気持ちは今も鮮明に覚えている。ただ20年前、あの雲よりもっと高いところに自分が本当にいたのかしら、全て夢だったんじゃないかと思う時があります」
今夏、20周年記念講演に出席するため久しぶりに帰郷。「夢に向かってもう一歩」をテーマに、「目標を持てれば、それは実現できる」と力強いメッセージを送った。
【外科医から宇宙飛行士に】
教師の父と鞄店を営む母のもとで育つ。8歳の時にガガーリンが人類初の宇宙飛行を達成し、17歳の時にはアームストロングが月面に人類初の第一歩を刻む。宇宙開発黎明期に多感な時期を過ごすが当時、宇宙に行けるのは米国や露国の軍人のみ。職業選択に宇宙飛行士はなく夢は医者になることだった。足の悪い弟や病気で苦しむ人を助けたい一念から15歳で単身上京。慶應大医学部に進み同大女性初の心臓外科医に。「宇宙に行きたい」 新たな夢がわき上がったのは32歳の時。きっかけは当直明けに目にした新聞の日本人宇宙飛行士募集記事だった。医師から宇宙飛行士に転身。が、その直後にチャレンジャー号が爆発しシャトル飛行は中断。医者に戻るか留まるか−悩みぬいた末、宇宙への挑戦を選んだ。「乗りかかった船を降りるのはもったいないなと。シャトル飛行が再開するか不安でしたが一生懸命やっていると必ずどこからか光が差し込んでくる。理想通りにはいかないけれど、新たな道を進む中で成長した自分にも出合えた。あの時、諦めずに本当に良かったです」
【モットーは「仕事場は宇宙」】
94年に続き98年、日本人初の2度目の宇宙飛行を達成。その後、宇宙飛行のバックアップクルーを2回、03年にはコロンビア号科学実験副責任者を務めるなど日本の宇宙飛行を大きく切り開いてきた。「仕事場は宇宙」がモットー。そこには価値観や国籍、専門分野などが異なる人々が働く。ウマが合わない人もいれば衝突することも日常茶飯事。悩んだり行き詰まった時は、「自分の所属する場を大きく捉えること」を自らに課す。「例えばJAXAのため日本のため、地球のためと視点を広げていくと好き嫌いや私利私欲に囚われずミッション完遂に集中できる。チームって面白くて、同意見の人よりバラバラの集団が一致団結した方が断然強い。議論を戦わせ切磋琢磨し、120%の成果が出せた時の達成感は何とも言えないですね」
【夢を見つけるのが得意】
「If you can dream it, you can do it」 米国での飛行訓練中に出合った言葉通りの人生を歩んできた。10歳で医者を志し25歳で心臓外科医に。宇宙に行きたいと思い立ち、9年後に無重力空間へ飛び立つ。
将来なりたい自分を想像し、そこに到達するため5年、1年、明日と短期目標を設定。やるべきことを積み上げ、数々のチャンスを掴み取ってきた。「自分の気持ちに素直に生きてきただけ。夢を見つけるのが得意なのかもしれない。難しく考えずにやりたいことがあれば、何歳になっても周りが何と言おうとやれば良いんです。一番大事なのは、自分の可能性を信じること。夢に向かって一歩踏み出せば、新しい世界が待っていますから」
【見えない精神的意義】
これまで9人の日本人が宇宙を飛び、3月には若田光一さんが日本人初の国際宇宙ステーション船長に就任。初飛行後の20年間に日本の宇宙開発は目覚ましい進歩を遂げる。蓄積された技術や知識は医療や安全保障など各分野に応用され科学技術の発展に大きく貢献。が、実利面だけでなく目に見えない精神的意義も大きい。「国境のない世界、国が違っても同じ『地球人』であることを多くの人が認識するようになったのは素晴らしい。例えば空気を汚せば隣国まで迷惑をかけることを知った。宇宙開発はお金に換算できない精神的な副産物を生み出しています」
【月から地球を眺めたい】
現在、JAXA宇宙医学研究センター長として飛行士の健康管理を指揮すると共に、宇宙医学の研究に邁進。自らの名を冠した郷里の科学館名誉館長としても宇宙の素晴らしさを発信中だ。海外出張が多く日本には1年の半分もいない。忙しい日々だが、新たな目標がある。「今度は月から地球を眺めてみたい。誰もが宇宙に行ける時代になるので、飛行船の添乗員になるのも良いわね。医者と宇宙飛行士をやって、次は何をしようと考えるだけでもワクワクする。『今日より明日はもっと良くなる』そう信じて夢を追い続け、人生もっともっと楽しみたいですね」 医師から宇宙飛行士へ-館林を飛び立ち、次々と「好き」をカタチにしてきた天女の「夢飛行」はこれからも続く。
写真・文/中島美江子